犬伏の別れ:信幸は東軍に昌幸・幸村は西軍に味方す
- 2015/6/24
- 真田家の悲喜劇
関ヶ原の合戦直前、犬伏の地で、真田親子は話し合いの場を持って、徳川・石田のどちらに付くかを決定。この事話し合いで結果的に親子が東西に分かれる形になったことから、犬伏の別れと呼びます。真田家を描いたドラマにおいて、名場面の一つとなるため、NHK大河ドラマ「真田丸」の描かれ方が今から楽しみ。
場所は、栃木県佐野市犬伏町。ここに真田昌幸が滞陣していると石田三成からの書状が届き、親子三人で真田家の生き残りや東西両軍のどちらが有利かを話し合います。
犬伏の別れ
上杉景勝討伐に向かう徳川軍に参加していた真田親子。そこに石田方から届いた密書。豊臣家の奉行から秀吉に忠節をしてくれるようにとの依頼。
慶長5年(1600)7月17日 真田昌幸宛長束正家等連署状
今度、家康が上杉景勝征伐のため出発したのは、誓詞や秀吉の遺言に背いて、秀頼を見すてて出陣したことになるので、豊臣家の五奉行等が相談して、家康を討つべく挙兵した旨を告げ秀吉の恩を忘れないでいたら、秀頼に忠節してくれるように、と昌幸に求めてきた密書である。長束正家、増田長盛、前田玄以の3名連署。
急度申し入れ候。今度景勝(上杉)発向の儀、内府(徳川家康)公上巻の誓紙并びに大閤(豊臣秀吉)様御置目に背かれ、秀頼(豊臣)様見捨てられ出馬候の間、おのおの申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違ひの条々別紙に相見え候。この旨尤と思し召し、大閤様の御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様へ御忠節あるべく候。恐々謹言。七月(慶長五年)十七日 正家(花押)
増右 長盛(花押)
徳善 玄以(花押)
眞田安房守殿出典:長野市松代:真田宝物館蔵
真田家と石田家の結婚
日付は7月17日。秀頼の名前を出して、忠節を求めていることからも豊臣家自身からの依頼と見る事ができる。これには真田家は迷った。
真田昌幸の妻は、宇田(宇多)頼忠の娘。旧姓を尾藤といい信濃の小笠原氏に仕える武士。ところが小笠原氏は武田に敗れて没落。宇多頼忠は、織田信長の家臣【森可成】に仕官する主君は、近江宇佐山城の戦いで戦死。そのため、兄尾藤知宣が羽柴秀吉につかえていた縁故から頼忠も秀吉に仕えることになったという。
そして、関ヶ原の戦いにおける主役の一人。石田三成の妻「皎月院」と真田昌幸の妻「山手殿」は、同じ宇田頼忠の娘だったのです。そして、尾藤知宣が失策を犯して処刑された後、長男の頼次は、石田三成の父「正継」の養子となり、真田昌幸の娘「菊」を妻に迎える。
真田家は石田三成と結婚によって強く結びついた一族だったことから、犬伏の別れでの話し合いが揉めに揉めたことは想像できる。
真田家の決断:犬伏での別れ
軍記物では、表裏比興の者と称せられた真田昌幸が、兄弟を東西に分けることで、どちらが勝っても真田家が残るようにしたとの説が有力。しかし、実際のところは悩みに悩んだ上及び、予想シナリオをいくつも描いた上での苦渋の決断だったことでしょう。真田家が素直に東軍側に付けば、上杉景勝を除く東国はほぼ徳川家の味方に。信濃の大名達も問題なく東軍につけます。ところが、真田家の抑える上田・沼田は中山道の要所。越後・信濃・上野の交通網が遮断されてしまいます。
犬伏の別れ:東西双方に縁がある真田家
信濃の小豪族だった真田家は、武田家の滅亡・本能寺の変・秀吉と家康の対決・北条攻めといった戦国乱世の戦いの中で領土は小さいながらも武名を上げたことから、有力大名と血縁関係を結ぶことに。
- 真田昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹
- 長男信幸の妻は徳川家康の重臣である本多忠勝の娘(家康の養女として嫁ぐ)
- 次男幸村(信繁)の妻は、秀吉の小姓から大名になった大谷吉継(石田三成の親友)
長男信幸は、徳川四天王の一人。本多忠勝の娘を家康の養女として嫁に貰っており、徳川家に仕えていたことなどから、徳川家に付くことが自然な流れ。次男幸村が後世では有名になったが信幸自身も武勇・知略に優れた名将で真田家嫡男の立場。
一方、父昌幸そして次男の幸村は豊臣家と関係が深い。昌幸は徳川家と二度に渡り戦いを繰り広げた上、幸村は豊臣秀吉の元で人質兼小姓として出仕。
昌幸の息子二人はそれぞれ違う派閥で人脈と閨閥(婚姻関係)を作ったいたため、兄弟が分かれる悲劇につながったのだろう。
西軍につくのは大きな賭け
西軍は、石田三成の首謀ながら、総大将は毛利輝元、次席に宇喜多秀家。そしてなんといっても豊臣秀頼の名前が出ていることから、戦いの結末は不確定。しかし、地理的な立場から真田家が西軍につくのは大きな賭け。後世の歴史を知っていると徳川家康の人望・名声・武力から西軍に勝ち目はないように思います。ところが、毛利家・宇喜多家・上杉家が組み、もう一人の大老前田家が中立を保てば勝負は分かりません。
徳川家康の地盤は、関東・東海・甲信地方。本能寺の変後に、織田家領土だった甲信地方を占拠した徳川家康は、秀吉により関東に移封されるまでの間、東海・甲信の領主として勢力を張っていた。つまり、上に君臨する大名は豊臣系でも地侍層は徳川家の息がかかった者達が多い。
しかも、徳川家康が率いる上杉討伐軍は、家康と豊臣恩顧の大名の中でも家康と仲が良い・血縁関係にあるなど家康側に付く可能性が高い大名達。結局、真田家以外は皆、徳川方。
真田家が西軍に付くということは、敵に四方を囲まれることを意味しており、孤立無援の状態になることが予想できる。おそらく信幸は、そのことを強調して、東軍に付くことを主張していたのだろう。それに対して、血縁・人脈から西軍および上杉家に味方したい昌幸・幸村が反論することに。
結果、昌幸・幸村は西軍に、長男信幸が東軍に付いた。
下駄で家臣の歯を折る
犬伏で、親子三人で話し合った時、に下記のようなエピソードがある。
昌幸父子は宿営していた民家の近くの離れで人払いをして何か相談していたが、なかなか出てこない。
そこで部将の河原綱家が心配して様子を見に行くと、昌幸は 「誰も来るなと命じておいたのに、何しに来たのだ。」 と怒鳴って、履いていた下駄を投げつけた。それが顔にあたって綱家は前歯が欠けてしまい、その後一生歯抜けのままだったという。真田氏の館
河原綱家は、大坂の人質だった真田昌幸の妻「山手殿」を守って、上田城に帰還したとの話もある。
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