福島正則の墓がある小布施の岩松院:葛飾北斎の八方睨み鳳凰図がまた見事!

戦国武将の福島正則は、ご存じ、豊臣秀吉の親類で賤ヶ岳の七本槍。戦国時代後期を彩る代表的な猛将。その福島正則のお墓は信州小布施岩松院にあります。

信濃の山裾にあり、四季折々の自然を感じられる素敵なお寺。

●小布施の岩松院

信州岩松院

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豊臣家を見殺しにせざるをえなかった福島正則の悲劇

尾張清州城主から関ヶ原の戦功で安芸広島に移封された正則。しかし、それからの彼の人生はちょっと可哀そう。旧主豊臣秀頼が、徳川家になかなか屈せずに、力を保っていたために、豊臣家の御恩を主張する福島正則・加藤清正たちは、目障りな存在。

しかも、加藤清正・池田輝政・浅野幸長など、同じ豊家で釜の飯を食った仲間たちが壮年期に相次いで死去。こうなると武辺中心で策略や調略が得意でない福島正則にはなす術がありません。

徳川家に物申すこともできず、豊臣家を説得して公家もしくは一諸侯として生きる道を選ばせることもできずに、終には大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家の滅亡を見る羽目に。恩人秀吉に頼まれた秀頼を見殺しにしたという意識は、彼の中に生涯ついて回ったはず。

徳川家康が天下を取るために、味方として利用した大名の第一は秀吉の親類にして武闘派筆頭の福島正則。自主的に味方した黒田長政や藤堂高虎とは、本人の意気込みや目的が全く違います。養子正之と家康の養女満天姫との婚姻は、太閤秀吉の法度に背くものとして五奉行・大老たちとの争いの種になった一つ。そこまでして内府家康に協力した正則。しかし・・・

関ヶ原の戦い直後には、家康の家臣に腹を切らせる程の覇気と自信を持っていた福島正則も、大坂滅亡時は、広島藩をあげて秀頼と共に戦う気概を失っていました。年齢を重ね・家族や家臣を抱えて責任ある立場にあった彼にできたのは、一族の福島正守・福島正鎮を豊臣に加わらせること位。正則自身は江戸留守居を命じられて、嫡男の福島忠勝が幕府軍に加わることに。

大名は誰も豊臣側につかなかったこの戦い。もし、福島正則が加わっても結果は同じだったことでしょう。

こうなると、徳川家に天下を取らせることになった関ヶ原の戦いでの奮戦、その前の小山評定での発言に後悔することしきり。酒癖の悪さで有名な人物ですが、いまわの際に頼まれた秀吉への謝罪と後悔の念が福島正則を酒におぼれさせたのかもしれません。

小布施の岩松院:福島正則の墓所

そんな福島正則は、大坂落城後に、広島城の無断改修をとがめられて、信州川中島に移封させられます。50万石から4万5千石ですから1/10への減封。その地が、現在の長野市周辺にあたります。武田信玄と上杉謙信が戦を繰り返したのがここ川中島。

そして、信州に来て5年語の寛永元年(1624年)7月13日に、悲運の名将のまま死去。岩松院霊廟に葬られました。しかも、幕府検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣の津田四郎兵衛が福島正則の遺体を火葬したとして、最後に残った2万石も没収され。福島家は取り潰し。幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とす。

●福島正則公霊廟:岩松院

福島正則公霊廟

福島正則:wiki:豊臣家きっての猛将、反石田三成の筆頭として話題に事欠かない人物。

戒名は、「海福寺殿前三品相公月翁正院居士」。

福島正則の戒名

岩松院:葛飾北斎の八方睨み鳳凰図

岩松院は、文明4年(1472)雁田城主の荻野常倫公の開基。曹洞宗梅洞山。福島正則の墓所としており、葛飾北斎の傑作「八方睨み鳳凰図」が有名なお寺。鳳凰図は北斎89歳、晩年の大傑作。

岩絵具・金箔をふんだんに使った絵は、現代も色鮮やかに、見上げる私達を睨んでいます。見る場所によって色の鮮やかさが違いますので、様々な角度からご覧ください。辰砂の赤、色あせているかに見える金箔の色は、本殿近くから見ると一段と鮮やかです。

撮影禁止ですし、大きすぎて他の場所に移すこともできません。ここでしか見られませんので、小布施に立ち寄る方は、一度は見て置いてください。

八方睨み鳳凰図

小布施観光案内帖より

小布施の街は、栗・葛飾北斎を二大特産品に、観光に力を入れている街。近くには、湯田中温泉・渋温泉の名湯もありますので、長野でも人気のある名所です。

小布施観光サイト

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