真田丸の跡地にある三光神社と真田山公園

戦国時代のフィナーレとなった大坂城での戦い「大坂の陣」。ここで活躍した真田信繁は、大坂城の南に出城として「真田丸」を築きました。

大坂冬の陣では、大坂城近辺の出丸が次々に落とされた中、真田丸での奮闘は、真田信繁の名を一気に高めることになり、父の名に恥じぬ息子よと東西双方からの賞賛を浴び、今も忠義に殉じた名将として真田信繁の生き様が語られる程。

今、この跡地は公園として整備され、心眼寺というお寺及び三光神社が並んでいます。

真田丸の跡地「三光神社」

大阪市天王寺区にある三光神社。ここには、真田信繁像と「真田の抜け穴」が残されています。玉造駅から歩いて10分程。

大坂城からは少し離れています。真田丸は出城とはいえ、大坂城から独立しており、北側(大坂城側)には、幅200mの谷(空堀)があった模様。

真田丸に惹きつけられた徳川勢は、まるで上田城の再現のように、攻めては敗れを繰り返し。

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三光神社

出典:NHK真田丸パンフレット

真田丸の抜け穴と真田信繁像

三光神社にある真田信繁像。若き名将というイメージが強いのですが、当時49歳。人間50年と敦盛を舞い本能寺の変で亡くなった織田信長と同じ歳。

そのせいか三光神社の真田信繁像は、まるで武田信玄のように恰幅の良い姿。

●真田幸村公の像

真田幸村像

土台は真田石

隣にあるのは大坂城への抜け穴

大坂城への抜け穴

大坂城へとつながっていたと伝承される抜け穴。現実的には、大坂城ではなく、周囲の堀(谷)への抜け道だと思います。出城で大事なのは外部との連絡。

水や食料の補給も必要ですし、周囲の情報が入らないことには、籠城時の戦術が決められません。そのために真田丸から外部への補給&連絡網を作っておくことは、籠城策の基本。

ただし、ちょっと無粋な話ですが、実際の真田丸は、三光神社の西側だそうで、現在明星学園という学校になっています。この抜け穴は前田家の堀った塹壕跡との研究が進んでいます。

グーグルマップ【三光神社】

三光神社自体が、真田丸より古い神社ですから。 旧姫山に鎮座し、中風除けの神として有名。大阪七福神めぐりの一つとして寿老神として参拝者が多い。

西暦4世紀末、反正(はんぜい)天皇の時代に創建されたと伝えられる歴史ある神社です。真田幸村の銅像と〝真田の抜け穴〟で全国に名を馳せ、幸村ファンにとっては、あこがれの“聖地”。宮司の小田禮五郎(おだれいごろう)さんによれば、ここ2~3年前から幸村を目当てに訪ねて来る人が急増。日本各地はもとより、台湾・韓国・中国などアジアからも若い「歴女」がやって来るそうです。三光神社

真田丸の参拝記念

真田丸参拝記念の絵馬。三光神社に奉納するも良し、持ち帰りも良しです。

面白かったのは絵馬を買った時。前のカップルが、どこから来たの~と宮司のおばちゃんに聞かれて、【群馬の沼田からなんですー】と嬉しそうに返したところ。

おばちゃんいわく【関東はよくわからんからね~群馬ってどこだっけ~】、真田の拠点「沼田」から来たカップルは思わず苦笑いでした。

でも、とってもいいおばちゃんでしたよ。お守りもありますし、おみやげにもちょうどいいかも。

勝ち守りは手彫だとのこと。

おとなりの心眼寺は、真田信繁(幸村)と息子の大助の冥福を祈るために創建されたお寺。寺紋は、真田家家紋の六文銭。創建時は真田信繁の墓を立てることが幕府から許されず、2014年に境内に建てられたとのこと。最近ですねえ。というか大河ドラマ「真田丸」決定後じゃないですか。

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