豊臣秀吉が、なぜ、朝鮮に出兵したのか?
その答えは、泉下の秀吉に聞くしかありません。結果は、無残な敗北に終わったため、歴史的な書籍を読んでも、明確な答えはないように思います。
史書は、敗者に冷たく、結果論で裁くものですからね。そのため、朝鮮出兵は、愚行だの・反対していたといった意見は残りやすい。出兵賛成という意見は、光秀謀反に賛成した意見と同じく、消してしまいたい過去になっています。現代のような議事録は残っていませんからね。
なぜ、豊臣秀吉は、朝鮮に出兵したのか?その理由は
門井慶喜氏の小説。【「なぜ秀吉は」:世のすべてを狂乱させる正気の人】を読みましたので、秀吉の朝鮮出兵について考えてみたいと思います。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵した背景
時代拝見を簡単にまとめると・・・こんな感じ。
●天下統一が完了し、国内での戦はできなくなった。武士達の活躍の場は無くなり、恩賞として土地を与えることは難しくなった。
●戦国時代を生き抜いた戦闘力と戦に対する狂気は維持されたままだった。
●世界最強の技術と装備を持った軍隊を維持するか解散させるかの選択に迫られた。
●欧州諸国は、キリスト教と帆船を持ち、大航海時代として、アジア諸国に進出していた
●中国の大帝国。明の力は、欧州や日本の成長に対して弱まりつつあった。
この状況なら、外部に敵を求めるのも理解できるような気がいたします。遅れて、戦国の世に登場した加藤清正や福島正則などの血気は、関ヶ原の戦いを見ても凄まじいものですからね。
門井慶喜氏の小説「なぜ秀吉は」?に見る朝鮮出兵の理由
門井氏は、まず、徳川家康や神屋宗湛の口を借りて、「結束・豊臣体制を盤石にするための統制と去勢」と言います。
- 共通の敵をこしらえること。明や朝鮮に戦争を仕掛けることで大名たちの結束を固め。大名達の戦力を削減する。
- 恩賞用の領土がほしい
- 勘合貿易の復活
それに対して、秀吉の答えはこれ。
生まれつきの欲。意志ではない。欲に従っただけ。成長したい・もっと欲しいという欲。朝鮮や明を征服すれば、イスパニアもポルトガルもローマもこの手に収める。世界帝国の建設などという大層な話ではない。ただ、日を生きるという話じゃ。
何も難しいことはない。もっと成長したい・もっと大きくなりたいという単純な生まれつきの欲。織田信長の後を継いだのも、深い考えがあったわけではない。秀吉にとっては、戦をして、領土を勝ち取り、大きくなるというのは、欲が理由だと。
戦で民が苦しむ・平和を求めてなどというのは、後からのこじつけなのかもしれません。戦国時代のイケイケ武将にとって、戦というのは、単なる欲・日々生きるために、必要な事という視点。
秀吉が朝鮮出兵した理由のまとめ
では、世の中の学説はどうなっているのでしょうか。
山本博文:東京大学教授のまとめた説を確認してみましょう。
1)秀吉の征服欲、名誉欲があったとする説
2)当時、明とは国交がなく、貿易もできなかったことから、明を服属させて貿易を行おうとしたという経済的な面から説明する説
3)国内の統一戦争が終わったため、不要になった兵力を国外に振り向けさせて大名を統制しようとしたという説
4)ヨーロッパ勢力が進出してきたことに対する反発という説
1から3は、古くから唱えられている説で、それぞれ秀吉の意図のある部分はつかんでいると思います。4は平川新東北大学名誉教授が主張した新しい論点です。
おそらく、どれか一つだけが正しいわけではないのでしょう。これらが複合して朝鮮出兵という計画が出来上がったのだと思います。
現代に生きる私達が、事業計画を作る時もそうですよね。たった一つの大きな理由よりも複数の理由が合わさっていることの方が多いはず。
中でも、近年、有力になりつつあるのは、欧州諸国への対抗。九州の大名「大村氏」が、長崎を宣教師に寄付。南蛮船が、日本人奴隷を海外に売っていたのも事例として挙げられます。
秀吉はじめ統治者たちが、大名よりも天皇よりもデウスを最上位に置くキリスト教に脅威を抱いたのも確か。大友宗麟のキリシタンかぶれが、武士団や領民をバラバラにしてしまったのも聞いたでしょうし。
スペイン&ポルトガルの侵攻は、さぞ脅威だったでしょう。そして、手元にあるのは、西洋にも負けない最強の軍団。そりゃあ、出兵を考えても不思議ではありません。
戦国時代と同時期、スペインを初めとした欧州列強国は、(東)アジアへの関心を強めていました。「コロンブス」がアメリカ大陸を発見し、「バスコ・ダ・ガマ」がインド航路を発見するなど、ときは大航海時代。「マゼラン」が率いるスペイン艦隊がフィリピンに進出して植民地化し、アジアの侵出の拠点づくりが始まっていました。スペインの次なるターゲットは明。これを征服したのちには、日本への侵出(植民地化)を目論んでいたとも考えられていました。これを食い止める方法は、日本が先に明を制し、防波堤とすること。そのために、秀吉は唐入りを決断したとも考えられるのです。もっとも、当時の日本の航海技術は、直接本土(大陸)へ船団を進められるレベルになかったため、朝鮮半島経由で明に攻め入る方法が選択されたと考えられます。文禄の役 – 刀剣ワールド
秀吉の乱心もしくは認知症
豊臣秀吉の晩年は、弟の秀長が亡くなって以来、あまりいいことがありません。妹朝日姫、息子鶴松の死去などが重ななったことは、秀吉の生命力の衰えを感じさせます。それゆえ、秀吉の精神がおかしくなったいた・認知症という説もあります。
しかしですよ・・・乱世が終わったばかりの戦国末期。主君が乱心・認知症になった。ならば、討ったり・隠居させればいいだけ。そこまで、秀吉政権が盤石だったとは思えず。
光秀の本能寺の変もそうですが、あまり、乱心や認知症という説には賛成したくありません。