吉光の御長持に入っていた石田三成の真田家への書状
- 2016/2/27
- 真田家の悲喜劇
信州真田家に伝わる開けてはならない「吉光の御長持」。真田信之の松代藩は、この危険な長持を守り続けていました。
緊急時には、何としても持ち出すべく、常に番頭1人、武士5人が昼夜警護をしていたという。表向きの中身は、二代藩主の真田信政に徳川家康から下賜された「藤四郎吉光」の短刀。
ところが、本当に秘蔵されていたのは・・・・
藤四郎吉光の御長持には、石田三成の書状あり
江戸時代、真田家が守り伝え、家老でさえ開けることを禁じられていた長持ち。その中には、たくさんの重要書類が・・・そして石田三成から真田家に充てた書状の数々。
関ヶ原の戦い時に、石田三成から真田昌幸にあてた手紙は、現代のわれわれに、戦国の息吹を伝えています。
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成と敗者についた真田昌幸・信繫。松代藩にとっては、徳川幕府への忠誠を疑わせる危険な文書。それでも、真田信之はこの手紙を燃やすことが出来ずに丁重に保管していました。
明治に入って、徳川幕府が倒れて、初めて公開された書状。
中には、石田三成から真田信幸宛ての書状もあり、真田家が二つに別れたのも家を存続させるための苦渋の決断(犬伏の別れ)であり、信幸自身、必ずしも絶対的に徳川家の立場だったわけではないことがうかがえます。
一先づ以って今度の意趣、兼ねて御知せも申さざる儀、御腹立余儀なく候。然れども内府大坂にあるうち、諸侍の心如何にも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。なかんづく、貴殿御事とても公儀御疎略なき御身上に候の間、世間かくの如き上は、争いかでとどこほりこれあるべきか。いつれも隠密の節も申し入れ候ても、世上成り立たざるに付いては、御一人御得心候ても詮なき儀と存じ思慮す。但し今は後悔に候。御存分余儀なく候。然れどもその段もはや入らざる事に候。千言万句申し候ても、太閤様御懇意忘れ思し食されず、只今の御奉公希ふ所に候の事 慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
真田昌幸に相談出来なかったことを謝罪する三成。人質が無事にいることや、上杉景勝とのパイプ役・信州への出兵など石田三成が真田家を重要に思っていたこと、考えていた戦略の一端が残っています。
徳川家康が関ヶ原の戦いの時に大量の書状で、多くの大名を味方にしていたことは有名。一方で三成及び西軍側も同じことをしていたはずですし、迷っていた大名は多いことでしょう。それがほとんど残っていないのは、歴史は勝者が語るの言葉通り、どこの家も自家に不利な証拠を残しておくはずがありません。その中で真田信幸が書状を残していた思いとは何だったのでしょうか。
本多忠勝に願い出て、父と弟の助命を嘆願した信幸、義に殉じた石田三成への哀悼の意志が彼の中にあったのでしょう。関ヶ原の敗者となった毛利家では、毎年、関ヶ原の恨みを晴らすのは今ぞという儀式を行っていたという噂があります。
家臣を抱える大名家として、家の存続を一番に考えねばならない立場の当主とは、何とつらい立場なのでしょうか。歴史上の名高き将となった父と弟に挟まれた兄信幸が、持ち続けた律義さ・友情・愛情が垣間見える逸話です。