徳川秀忠が上田城攻めで、関ヶ原の戦いに遅れた理由

天下分け目の戦いとして、日本史有数の激戦だった関ヶ原の戦い。この戦いに徳川軍主力を率いた徳川秀忠は、間に合わずに遅参という不名誉な結果に。

真田昌幸・信繫親子が武名を挙げることになった第二次上田城の戦い。徳川秀忠のダメっぷりばかりが広まっていますが、本当はどうだったのでしょうか?

徳川秀忠が真田攻めにてこずり関ヶ原に遅参

この時、中山道を通った徳川秀忠軍が間に合わなかったことから、関ヶ原の戦いでは、東西入り乱れての大混戦。小早川秀秋の裏切りがなければ東軍勝利さえ危うい程。

なぜ、徳川秀忠は、関ヶ原(上方)に向かわずに、上田城攻めを敢行したのでしょうか。家臣の反対を押し切ったとの話も伝わっていますから、徳川秀忠は戦略・戦術に欠けて武将の器ではないとの評判が立っています。

後程、二代将軍となる人物に可哀そうな評価。

<スポンサーリンク>

関ヶ原に間に合わなかった理由

  1. 徳川軍主力を温存するため
  2. 信州攻略を優先するため
  3. 関ヶ原の戦いは偶然おきた
  4. 伝令が間に合わなかった

まずは、当時の状況を見てみましょう。

  • 7月1日:石田三成挙兵
  • 7月17日:毛利輝元大坂城に入り総大将を引き受ける
  • 7月24日:徳川家康下野小山に到着し、三成挙兵を知る
  • 7月25日:小山会議開催
  • 8月1日:伏見城陥落
  • 8月24日:徳川秀忠軍が宇都宮城を出発
  • 8月25日:江戸の家康に東軍が岐阜城を落としたとの知らせ
  • 8月29日:江戸の家康が秀忠に使者を派遣、大垣へ急ぐように指示
  • 9月1日:徳川家康軍江戸から出陣
  • 9月9日:使者が秀忠に到着して、上田城攻めを中止
  • 9月10日:徳川秀忠が上田を出発
  • 9月11日:徳川家康が清州城に到着
  • 9月14日:徳川家康が大垣に到着
  • 9月15日:関ヶ原の戦いが開始
  • 9月17日:木曽で秀忠が関ヶ原の勝利を知る

というような流れになります。現代の私達から見れば、関ヶ原の戦いこそが乾坤一擲の大勝負。ここに東西両軍が全力を注いで当たり前と思いがち。

しかし、そう簡単なのものではありません。

石田三成が集めた勢力は巨大で、西軍の主なメンツは、中国の毛利・四国の長宗我部・薩摩の島津・備前の宇喜多、さらに小西行長・大谷吉継・立花宗茂(関ヶ原には参加せず)・鍋島勝茂(微妙)と錚々たるメンバー。

家康を除く五大老そして奉行衆が参加して、大坂城を本拠地にしました。=中立とはいえ豊臣秀頼も西軍側のようなもの。

真田・佐竹・上杉あり

家康の指令は上田城を落とすことだった

徳川家康の本拠地たる関東から上方に向かう東海道は、東軍についたものの、お隣の常陸佐竹は当主の義宣が三成派。これに信州の真田昌幸が西軍についたのですから、東軍も危うい状態にあったのです。

逆に西軍の方が、四国や九州・北陸を制圧した後に、東海・関東を攻めることもできる状態。

そこで、徳川家康が秀忠に当初、与えた命令は、真田昌幸籠る上田城を落として、信州と中山道を制圧せよという内容。そのために徳川軍の戦闘部隊は井伊直政・本多忠勝直属部隊を除いて、ほとんどが秀忠軍に所属することになりました。

江戸で、各国の大名達に書状を送り、鎮撫工作をしていた家康が岐阜に向かうように指示を出してはじめて、徳川秀忠は方針変更するのです。

常陸は、隠居した父の佐竹義重を抑え、大坂城の毛利輝元・豊臣秀頼が出馬できないようにし、吉川広家・小早川秀秋・増田長盛等の内通を得て、家康の方針も変化したのでしょう。福島・池田等の東軍が岐阜城を落としたのも大きいと思います。

徳川秀忠のミスは遅れたことではない

確かに天下分け目の戦いに遅れたのは、秀忠のミスかもしれません。しかし、最初の方針が違ったこと・伝令が遅れたこと・雨で道がぬかるんでいたことなどが重なったことが遅参の理由です。

ただ、上田城をすぐに落とせなかったことが遅刻の理由でもありますから、家康が怒る理由は分かります。とはいえ、八つ当たりに近いでしょう。9月9日に使者が到着して15日に関ヶ原の戦いです。もし、上田城を落とした徳川秀忠が、美濃の近くまで来ていれば別ですが、信州北部の川中島辺りにいたとしても間に合うかどうか微妙です。

ちなみに、近江の大津城では、蛍大名として有名な京極忠次が、1万5千を超える毛利元康・立花宗茂を引き付けることに成功。開城と同時期に始まった関ヶ原への参陣を止めました。

東軍に徳川秀忠が参加できなかったように、西軍も毛利元康・立花宗茂という最強クラスの武将が参加できなかったのです。

[`yahoo` not found]
[`livedoor` not found]

関連記事

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
ページ上部へ戻る