天下布武を目指した織田信長を裏切った男たち

織田信長を裏切った男(女)は、明智光秀を筆頭に何人もいます。ここでは、その裏切った人物をカンタンにご紹介します。

織田信長を裏切った男達

信長を裏切った男達明智光秀を除いた8人をご紹介します。最終的には、本能寺の変でなくなり、天下統一の夢半ば、墓所は京都の大徳寺の塔頭「総見院

品行方正な弟君、織田勘十郎信行(信勝)

信長の弟「勘十郎信行」は、兄弟の父「信秀」死後の相続争いで、信長と後継の座を争いました。

うつけ者として、家臣の評判が悪い信長に対して、品行方正で家老の言うことを良く聞く男として、人気を集めます。

そして、1557年4月、柴田勝家や林兄弟とともに信長に反旗を翻し、稲生の戦いを挑むも敗北。この時は、母の土田御前の仲介で許されました。

さらに、この戦いで、信長の力量を認めた柴田勝家は、信行に信長に従うように勧めて信行側を離反。

それでも、信行の謀反心は収まらずに、度々、怪しい行動に出たため、信長は仮病を使って清洲城に呼び寄せて殺害。

子供の信澄は、津田姓を与えられ、信長の家臣として活躍し明智光秀の娘を妻とする。そのため、本能寺の変の時に明智光秀に味方すると疑われて、丹羽長秀&織田信孝に殺害される。

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信長あってこその鬼柴田、柴田勝家

後の筆頭家臣。鬼柴田・権六として信長に重用された武将。信長の実弟「信行」を擁立して謀反を起こすも、敗北して以後、信長の忠実な部下となる。

戦にこそ本領を発揮する猛将で、信長亡き後は、秀吉との争いに敗れて、越前北の庄城を攻められて自害。

恨み忘れず20年、林秀貞(通勝)

信秀から信長に付けられた筆頭家老。信行・勝家とともに信長に謀反を起こすが敗北。その後は、許されて信長に仕え引き続き、文官・家老として活躍。

ところが、織田政権の中央支配が安定しつつあった1580年に、佐久間信盛・安藤守就とともに信行擁立の罪により追放。

お市の夫、重い決断、浅井長政

北近江の戦国大名、信長の妹、お市と結婚し信長と同盟する。

しかし、長年の盟友「朝倉家」を織田信長が攻めたときに、浅井長政は離反する。裏切ったのは、朝倉家を攻めないという約束で織田家と同盟した。足利義昭のそそのかしがあった。などの説がある。

実際、その後は、浅井・朝倉連合軍として、反織田軍の中核として活躍するも姉川の戦い・比叡山焼き討ち・家臣の離反などで力を失い敗北。

希代の策謀家15代将軍、足利義昭

足利最後の将軍。三好・松永に追われて流浪の将軍として近江から越前に落ち延び朝倉に保護されていた時に、明智光秀を仲介に織田信長の元に身を寄せる。

信長の上洛で、足利15代将軍の座につくが武家の統領として、トップに立つことを望んだ義昭と傀儡将軍として実権を握りたい信長との間に溝ができはじめる。

足利将軍として、信長支配下にありながら、武田・上杉・浅井・朝倉など有力大名に御教書を連発し、反信長連合軍を裏で操り、一時は信長を追い詰めることに成功。

しかし、最大の望みであった武田信玄の上洛軍の際に、完全に反旗を翻すも信玄は病死し、義昭の反逆も鎮圧される。さらに、信玄の死亡は隠されたためか、義昭単独で宇治槙島城に立て篭る。

あっさりと包囲され、ついに降伏し京都から追放されることになる。その後も征夷大将軍としての位は維持していたものの実質的な力は失っていた。

馬鹿将軍として、描かれることも多いのですが、反信長連合軍を作り上げた手腕と行動力からは、それなりの力量を備えた人物だったといえます。

平蜘蛛を渡せば許す、松永久秀

管領細川家の家宰だった三好長慶の家老から成り上がった松永久秀。東大寺を焼き将軍義輝を殺した戦国屈指の悪役です。

信長に対しても二度、謀反を起こし、大和信貴山城に篭るも最後は城を包囲されて、大名物「平蜘蛛」の茶釜とともに爆死。

この時、平蜘蛛の茶釜さえ差し出せば許すという話を断って爆死したとのこと。

なぜ死ななかったのか?荒木村重

もともとは、摂津池田の池田氏家臣から成り上がった男。摂津一国を与えられ、柴田・丹羽・滝川・明智・羽柴らに並ぶ織田軍団長の一人になる。

本願寺攻囲戦の最中に部下が米を本願寺に売ったとの疑いをかけられたためか、信長の下での出世競争に疲れたためか突如として反旗を翻す。

最終的に、有岡城・尼崎城に籠城するも、その身一つで脱出し、生き延びて秀吉政権下で茶人として生きる。

荒木道糞と名乗っていたこともある。

敵将と結婚、おつやの方

美濃岩村城主、遠山景任の妻。1571年、景任は子供が無いまま病死したため、おつやの方は信長の五男坊丸(後の織田勝長)を養嗣子とする。

そして、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となった。ところが、秋山信友によって岩村城が攻められ、和議として、信友が結婚を求めてきたことから岩村城は降伏し信友の妻となった。

1572年、長篠の戦いで武田家が敗れ、岩村城も落とされた後、おつやの方も信長に処刑されることになった。

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