派手で華やかな人生だった太閤秀吉の寂しき死と墓所

太閤秀吉といえば、豪華絢爛な桃山時代を生きた男。というより時代を作り上げた男です。

豊臣秀吉の華麗なる美意識

千利休が黒こそ至高とのたまえば、秀吉は赤が良いと言い、その美意識においてもひとかどの人物。

黄金の茶室・大坂城・聚楽第・北野の大茶会・大名達への金配り・信長への盛大なる贈り物。全てにおいて派手好きで華美な装飾を好んでいたのです。

早熟の天才たる狩野永徳の絵こそ彼の美意識にかなうものだったことでしょう。

秀頼誕生と朝鮮出兵が彼の人生を狂わせる

あけっぴろげで陽気な秀吉に幾多の人が魅了され、天下を支えていたはず。それが黒雲に包まれていくのは秀頼誕生と朝鮮出兵でしょう。失敗したからこそ朝鮮出兵は反対者が多かったとみなされていますが、信長在世中の秀吉の発言や下剋上の世の中を考えると戦争賛成派も多かったはず。

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なぜなら、乱世でないと出世も領地獲得もできないから。戦国の世を生き抜いた戦闘のプロ達が簡単に止まるわけがありません。因幡鹿野の領主だった亀井茲矩は恩賞としてどの国が欲しいかと聞かれて琉球と台湾をくだされと答えて、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという話しもあるくらい。当時の時代の空気はそんなもの。

そして秀吉は朝鮮出兵が明らかに失敗したと分かり撤退の期をうかがう中で死去します。

天下人豊臣秀吉の寂しい死去と墓所

死の直前は、英才のかけらも見えません。

有名な遺書は秀頼の事しか書いていません。天下人として日本の平和や方針ではなく秀頼大事のことのみ。

秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのみ申し候
なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく
八月五日 秀吉印
いへやす ちくせん てるもと かけかつ 秀いえ 万いる
返々秀より事 たのみ申し候五人のしゆ(衆)たのみ申し候
いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上(原文)

豊臣秀吉遺言状

絶頂期の自信家ぶりと遺書に見える弱さと哀れさのコントラスト。

そして、慶長3年(1598)8月18日はついに亡くなります。辞世の句はおそらく少し前に創っていたのでしょう。

露と置き 露と消へにし 我が身かな 浪華のことも 夢のまた夢

天下人の喪を秘す

朝鮮出兵中の将士を無事に帰すために秀吉の死は隠されることになっていました。

「我が死後、ただちに講和を結び高麗より兵を引け」という遺命を守るためにも漏らすわけにはいかなかった。死去を知ったならば明・朝鮮連合軍が一気に襲い掛かり日本軍の命はありません。ちょうど本能寺の変で信長が亡くなった時の秀吉軍と在朝鮮の日本兵は同じ立場だったのです。

太閤秀吉の墓所

そこで、墓所に決められていた京都阿弥陀が峰に遺体を運び密葬されたのです。一説では、秀吉お気に入りの僧「木食上人」と五奉行の一人「前田玄以」の二人とその配下が伏見城の裏門からひっそりと運び出して埋葬したと言われています。

●京都市東山区今熊野阿弥陀ヶ峰町 豊国廟


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天下人の最後としてなんと哀しいのでしょうか。

志半ばで本能寺で謀反に倒れた信長、天下の仕置きを大方成し遂げて大名達に釘を刺して亡くなった家康とは大きな違いです。

朝鮮に出兵した兵が帰還した後、死を公表された後は、華やかな葬儀や神号を贈られますが、豊臣氏の滅亡とともに廟も破壊されてしまいます。

秀吉の葬儀と方広寺&豊国神社

秀吉の死について、葬礼は遺言にまかせ、秘密裏に阿弥陀ヶ峰(標高196m)に葬った。とくに朝鮮に渡った諸将には、臨終の尊顔を拝せず、悔いを残す。しかるにこれまで葬儀も勤めず焼香もしなければ、何をもって高恩に報うことができようか。

徳川公にこの主旨をのべると、徳川公もこれを義とされた。そして中老五奉行と相談され、葬礼は方広寺大仏殿(現・京都市東山区)境内とし、2月18日に勤めることが定められ、日本の大小名に残らず伝えられた。秀吉の葬儀

この方広寺は、後に鐘銘事件で「国家安康、君臣豊楽」の文字が問題になり豊臣家の滅亡につながった寺。

実はこの問題になった鐘は今も残っています。徳川家を呪う不吉な鐘じゃなかったの(笑)

翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われた。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされていた。豊臣秀吉の墓(豊国廟)

豊国神社

黄金の日日 豊臣秀吉 緒形拳

豊国大明神として神になった秀吉、そして東照大権現として同じく神になった家康(日光東照宮)、死後の二人が眠る場所は大きな違いです。

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