紅葉の美しい松代城は真田家ゆかりの史跡
- 2015/12/9
- 歴史の名所
真田信之が上田から移封されて以来、真田氏10代続いた松代藩。その中心が松代城。2016年の大河ドラマ「真田丸」でも松代城や真田信之(信幸)も登場することでしょう。
弟の真田信繫(幸村)に比べると知名度は低いながら、信濃の獅子と呼ばれ、徳川秀忠の逆恨みや弟信繫の徳川家に対する抵抗がありながら、信州松代の地で長寿をまっとうした真田信之も名将の一人です。
松代城跡は、紅葉か桜の季節がおすすめ!
真田六文銭で有名!真田宝物館。
信濃の獅子「真田信之」
父の昌幸、弟の信繫よりも知名度は低くても勝るとも劣らない名将です。何しろ1658年10月まで生き抜いて享年93歳!戦国最後の生き残りとして、戦を知らない武士たちに尊敬されていました。
戦国時代長生きしたもんが勝ち。家康が天下を取れたのも秀吉より長生きしたから。豊臣政権時には、戦国時代を生き抜き、小牧・長久手で秀吉に負けなかったことが金看板。
真田信之の晩年も戦に参加した武士達のほとんどが亡くなり、本当の戦を知るものがほとんどいない時代。傾奇者たちがきらびやかに着飾ろうと喧嘩にあけくれようと、合戦の経験があるなしは大きな違い。どの大名家でも合戦経験のある老武者の家に、関ヶ原の戦いや朝鮮での戦いなど合戦噺を聞くために若者が集まっていました。
そこに、歴戦の勇者「真田信之」。戦国時代最後の生き残り大名として、徳川家光・紀州の徳川頼宣に戦国話をするのが常で、紀州頼宣子息の烏帽子親になったというはなしもあります。
「(うむ、やはりこの人しかおらぬ!)なるほど。あとは戦での指図の要、ほら貝・陣太鼓など拝見したい。」
「心得ました。では後日、用意の上で実演いたしましょう。」
約束の日、信之がほら貝を持って紀州藩邸に行くと、豪華な甲冑の飾ってある座敷に通された。
「?紀州様、これはいったい?」
「申し訳ない、ほら貝などとは口実。わが子も年頃になり、鎧着初めの儀を行なうことになった。そこで、ぜひ貴殿の
武功・忠義にあやかりたく、具足親になっていただきたい。」
元服の儀の烏帽子親は平時の後見役、鎧着初めの具足親は、有事の後見役である。
「将軍家や数ある大大名を差し置き、私などがそんな、大それた役は…」
「貴殿がそう言うと思って、わざわざウソをつくような真似までしたのだ。信之殿、頼む!」
「…仕様のないお人じゃ。」信之は頼宣の子に甲冑を着付けてやった。
「せっかくだ、わしの愛刀を差し上げよう。銘を『大食上戸餅食らい』と申す相州秋広の業物、その切れ味底無しじゃ。」
頼宣は大いに感謝し、信之に兼光の脇差等を贈った。
二代将軍の徳川秀忠にとって、真田家は、関ヶ原遅参の原因となった家。そのため徳川秀忠存命中は何かといやがらせを受けた模様。しかし、正室小松姫の義父本多忠勝や大御所徳川家康を味方につけて上手に、真田家を存続させることに成功しました。
実際、人質暮らしが長く、知名度の低かった信繫に対して、父の右腕として長く活躍していたのは真田信之の方。犬伏で家を保つために親子が東西に分かれて戦うことに。
第一次上田合戦、本能寺の変、小田原征伐などで活躍しました。戦国の傾奇者として有名な前田慶次郎利益とは懇意だったという話もあり、織田信長の死去も慶次郎から聞いたという話があります。
桜と紅葉の松代城跡
真田家が10代に渡り、治めていた松代城。現在は、天守もなく、城跡が残るのみ。戦国時代は海津城として北信濃の抑えの城でした。
今の松代は電車も廃線となり、少しさびれた感じを見せる街。ただ2016年の「真田丸」放送に向けて、展示や改修が行われており、今後が楽しみです。
実際、城跡は公園として整備されており、その美しさは格別。紅葉の時期は、周囲の山々が真っ赤に色づき、城内も茜色に染められていました。そして、この城には桜の木が多く、春に咲き誇る様は桜の城と言いたくなる美しさでしょう。
私が訪問した時は、冷え込みが厳しく、温かい栗おこわやお茶を昼食に戴きました。
信濃松代城跡
長野電鉄長野線沿線活性化協議会
2012年3月いっぱいで廃線になった長野電鉄の松代駅。駅から歩いてすぐが松代城跡。
松代城跡観光サイト
- 竹風堂松代店:ランチには、松代城跡そばのここがおすすめ
- 真田宝物館:城を巡ったらここで真田家に思いをはせよう。 短刀 銘「吉光」や真田昌幸が秀吉から賜ったという三原の刀が存在。
- 松代城跡
- 真田信之:wiki:真田家のれkしいを知ってから巡るとさらに面白い
- 川中島バス路線図:長野駅からバスで向かうのが楽。途中に川中島古戦場跡もあります。