織田信長は粗暴で、明智光秀と性格が合わずに、足蹴にすることが多かった。お世辞や自分を落として評価を高める秀吉に対して、マジメで律儀な光秀は苦しんでいたというのは定説。
その定説が作られたのは、秀吉&家康時代。ならば、両者に不都合な真実は捏造されたのではという視点から、本能寺の変の謎を解き明かしたのが、明智氏の子孫という明智憲三郎氏
本能寺の変431年目の真実
ベストセラーになっているため、目にした方も多いのではないでしょうか?
秀吉が天下を取るにあたって、相当なことをしたのは周知の事実。織田信長の子供である信孝を切腹に追い込み、信雄は領地を取り上げてお伽衆に格下げ。織田家を相続すると清州会議で決めた織田三法師秀信は岐阜の一大名にしかしなかった。
天下取りに役立ったのが、宣伝の上手さ。本能寺の変から4か月後に、「惟任退治記」という明智光秀退治物語を大村由己に書かせて、お館様の仇を討った忠義者を演出。
この本を元にして、明智光秀の怨恨説が出てきている。
では、真実はどうたったのでしょうか?
徳川家康を討とうとした織田信長
歴史上の流れとして、織田⇒豊臣⇒徳川と政権が移ったこと。江戸幕府を開いた家康が神君となった事から、徳川家康の悪いイメージはかなり消されています。
特に、前半生における家康は、戦国最大の忠義者。三河の犬と織田家の侍にからかわれるほどに、織田家に忠誠を尽くした律儀な人物。信長も家康だけは信頼して、三河の親類と親しみを持っていたというのが通説。
しかし、その通説に疑問はあります。徳川家康という人物は謎が多いのです。影武者徳川家康で、隆慶一郎氏は家康は悪女のようでかつ、前半生と後半生(特に関ヶ原の戦い)で人が違うようだと書いています。
●側近だった天海僧正=明智光秀説もありますね。東照宮の近くには明智平という地名が。
- 家康長男の信康切腹事件は、信長の命令ではなく、徳川家内の内紛であるという説
- 本能寺の変における伊賀越えは、事実だったのか
- 同行していた穴山梅雪死亡の理由は
- 変後に、織田家支配下の甲信を奪い取ったのは?
- 伊賀忍者や武田家家臣をかくまったのはなぜか
- 先輩・師匠として参考にしたのは信長ではなく、武田信玄や源頼朝(鎌倉幕府)
- 息子秀忠の乳母に採用したお福(春日局)採用の理由が謎すぎる。乳母を高札で求めたというのは信じられない
- 明智一族とも噂がささやかれる天海僧正への厚き信頼
明智氏の説では、今、信じられている程、家康と信長の仲は良かったわけではなく、宿敵武田を葬った信長は、家康を討つ予定だった。それも単純に攻め込むのではなく、家康および側近を本能寺で討ち取ってから明智光秀に主のいない駿遠三を侵攻させようというシナリオ。
土岐氏再興を願った光秀
明智憲三郎氏は、著書「本能寺の変431年目の真実」の中で、光秀謀反の真意は、懇意にしていた長宗我部一族の滅びと老齢を迎えた自分に不安を感じたことだといいます。
本能寺の変がなければ、明智と親しい長宗我部家は亡ぶか土佐一国におしこめられていたはず。そして光秀自身は、毛利や九州征伐に駆り出されて、近畿から転封されることは確実。
それだけではありません。秀吉の天下制覇後の構想は、織田信長が考えていた事でもあったはず。ならば、明征伐に明智家が向かわされた可能性があります、とどまることを知らない征服欲に子孫のために歯止めをかけたかったとの説を唱えています。
確かに筋が通っていますね。ほとんど歴史に登場しない光秀の子「光慶」のこと。明智家重臣である斎藤利三がキーマンであること=お福こと春日局の父親。
詳しくは、文庫本にもなっていますので、お読みの上、ご判断下さい。