本能寺の変に黒幕はいたのか?朝廷それとも秀吉

明智光秀による謀反、本能寺の変

織田信長を討ち取った実行犯は、「明智光秀」で間違いありません。しかし、その動機は謎に包まれ、黒幕がいたのではないかと議論はつきません。

光秀をそそのかした人物は誰でしょうか?

黒幕その1、朝廷説(天皇や公家)

信長の目的はなんだったのか?

神を称したこと、征夷大将軍を辞退、副将軍や管領を辞退など、信長の望んでいたことはわかりません。

・足利義満=息子を天皇にしようとした。
・豊臣秀吉=関白そして豊国大明神
・徳川家康=征夷大将軍そして東照大権現

信長が朝廷の権威を維持したまま、天下統一をしたかったのか?統一後は、天皇を超える権威を確立するつもりだったのかは謎のままです。

・天皇譲位問題・暦問題・馬揃えの強行など、朝廷に圧力をかけていたこと、

・古いものを壊す改革者ゆえの朝廷対立

・徳川家が天皇・公家を封じるための各種方策

などを考えると、天皇の上を狙おうとしていたと考えられます。そして、徳川家は信長の行おうとしていた事を参考にしながら、朝廷政策を行ったのかもしれません。

ただし、乱世の継続は、武力を持たない天皇・公家にとってはよろしくないはずで、信長を討つことで起こる混乱を考えると、明智光秀の黒幕となったかは怪しいところです。

公家たちの考えとしては、統一だけさせておいて、そのあとに行動を起こす方が似合いの行き方のような気がします。

もしかしたら、明智光秀に信長の悪口を吹き込んだところ、彼が先走って行動したのかもしれません。

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黒幕その2、羽柴秀吉

この事件で最も恩恵を受けた人は、なんといってもこの秀吉です。

もし、信長が生きていれば秀吉が天下人になることはなかったでしょう。

羽柴秀吉の画像有能かつ人たらしの秀吉といえど、当時の身分制度の元で壁を破るには、戦国時代という日本の歴史上でも特異な時代と信長という天才の引き立てが必要でした。

羽柴秀吉の状況と黒幕?

その秀吉は、本能寺の変の時には、毛利軍と備中高松城で対峙している最中です。本能寺の変は、秀吉の援軍要請に応じた信長が、光秀などを先発させて、自身も征伐に向かう途中で起きた出来事です。

つまり、秀吉が信長を誘い出し、無防備なところを光秀が討ったというシナリオも成り立ちます。その後で、秀吉は、逆賊光秀を討つという行動に出たとも考えられます。

ただし、その秘密を抱えたまま天下人になることの困難さを思えばむずかしいのではないでしょうか。決して正当な後継者ではなく、出自の低さというハンデを持っていた秀吉です。

バレたら誰も味方になどつきません。秀吉の政治を見ると、信長の政策を理解していた忠実な後継者であり、リスクを犯して謀反をする程の動機がありません。

やはり、信長の死後、はじめて天下への望みを持ったと見る方が自然です。

黒幕その3、徳川家康

信長の忠実な同盟者、徳川家康は、天下を取る上で、信長よりも信玄や頼朝を参考にしています。

徳川家康の画像家康黒幕説の根底にあるのは、徳川家および家康の将来姓です。

織田家と徳川家の同盟は武田家がいるからこそ、意味があり、天下統一を目前にした信長が家康を殺そうとしていたとの説があります。

家康黒幕の動機や根拠

・家康の長男「信康」は武田に通じた・部下への信頼がないとして、信長の命令(異論あり)切腹させられている。

・本能寺の変時には、信長の招きで、安土~京~堺を見物しており、この時に、家康殺害命令が出ていた。

・大大名に成り上がった家康が邪魔になっていた

・安土城での家康接待役は、明智光秀で打ち合わせが可能だった。

・明智光秀と徳川家康は性格が似ており、お互いの気持ちを汲み取ることができた

・家康の孫「家光」の養育は、光秀の部下「斎藤利三」の娘「福(ふく)」を採用している。本来、謀反人の子孫を採用するのはおかしいのではないか。しかも公募!

・家康晩年のブレーン、「天海僧正=明智光秀」説もあります。日光の明智平や位牌、寺への寄進など

・対等同盟だったはずが、信長と家康に大きな差がつき、徳川家には不満が溜まっていた

家康は、本当に黒幕だったのか?

ただ、堺から伊賀超え~三河帰還は、家康の人生の中でも最大の苦難の一つ。光秀は落ち武者狩りで首を取られ、この時に家康と別行動をとった穴山梅雪も殺されています。

戦国時代に少人数で山越えがどんなに危険かは、現代では想像できないところです。

もし、本当に黒幕で、光秀と同盟を結んでいたのであれば、それなりの防衛力や独自の地位をもつ堺にとどまり情勢の推移を見守れば良いのではないでしょうか。

さらに、家康が狸親父として政治力を発揮するのは、秀吉のやり方を見て学習した晩年です。このときの家康は、中央の政治にうとく戦に強い地方大名です。

光秀の黒幕になるほどの政治力や駆け引きの能力は、本人にも部下にもありません。黒幕というより同盟者だったという説を明智氏の子孫「明智憲三郎」氏が著書で唱えています。

黒幕その4、細川藤孝

足利義昭を共に支えた細川藤孝は、明智光秀の組下となりましたが、光秀にとって信頼できる人物でした。

本能寺の変後に、当然、味方になると思った光秀の誘いをはっきりと断っています。そして、秀吉政権・家康政権でも上手く乗りきり、肥後熊本に細川藩を打ち立てます。

息子忠興の妻は、光秀の娘「細川ガラシャ」で、忠興が嫉妬に狂う程の美女だったと言われています。

細川藤孝黒幕の動機や根拠

・名門細川家として、信長の南蛮趣味や古きものを壊していく政治に対しての反感

・信長部下達の家柄や出自に対しての反感

・かつての部下格で友人だった明智家の下風に立つことへの反感

・明智光秀を唆すにふさわしい立場や信頼関係を得ていたこと

細川藤孝の画像

細川藤孝は、本当に黒幕だったのか?

細川藤孝は、明智光秀以上に京の政界や文化面で人脈が広い人物でした。

そして、もし、明智光秀が謀反を起こしたなら味方になる確率が高く味方にできなかったならば、明智に対して世間の信頼を失うような親密な関係です。

本当に黒幕だったかは、謎でしかありませんが、もしも信長を討ったなら味方する位のほのめかしをしていたのではないでしょうか。

ワンマンな信長に対して、陰で文句を言っていた人は多いと思います。それらの意見を聞いていた光秀は、もし、信長を討てば、喜ぶ人は多いと考えたかもしれません。

本能寺の変の黒幕その2へ続く

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