織田信長の楽市楽座は現代にも通じる既得権のぶっ壊しが目的!

歴史の教科書で習う楽市楽座。兵農分離と並ぶ織田信長の代表的な政策の一つです。

では、この政策を始めた人物が信長ではないことはご存じでしょうか?

六角定頼が楽市楽座を創始

代々、近江は佐々木氏が守護を務めている国で、京の入り口に位置する重要な国。佐々木氏の先祖はバサラ大名として有名な佐々木道誉。

天文18年(1549年)に六角定頼が、本拠地の観音寺城にて城下町で楽市令を始めたのが最初。

楽市楽座の主旨と目的をカンタンに言うと商売における「減税政策」「新規参入の自由化」で、現代の規制緩和と同じこと。

それまでは、商売を行うには、座と言われる既得権に認めてもらう必要があったのです。でも、これだと一部の商人に商業利権を独占されてしまいます。

既得権を持っていたのはだあれだ?

一つの答えは大商人・・・。ところが、もっと強大な権力を持っていた集団が日本にはあったのです。

後に織田信長にとって最大最強の敵となる相手。

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答えは、お寺や神社いわゆる寺社勢力!

今の時代からは、ちょっと想像がつかないかもしれませんが、彼らの力は恐るべきものでした。この当時は、荘園や関所、座といった経済利権を持ち武力をも備えた強敵だったのです。

ほら、信長の闘った相手の中で寺社関係を挙げてみます。

  • 伊勢長島の願証寺
  • 比叡山延暦寺
  • 石山本願寺

部下にも大和の僧兵あがりの筒井順慶や比叡山の山法師であったと言われる宮部継潤などがいます。

座を握る寺社

座についてwikiから引用してみましょう。

座は公家や寺社を本所として座役を納め、あるいは奉仕を行い、本所は座の構成員である座衆に供御人・寄人・神人などの身分を与えてこれを保護した。

記録上に残る最古の座は青蓮院を本所とする八瀬里座で杣伐夫や駕輿丁によって構成されて青蓮院の本山である延暦寺や朝廷に奉仕を行い、後の八瀬童子の源流となった。鎌倉時代に入ると大都市や商工都市を中心として座の数が増加するようになる。代表的なものとしては京都においては後の西陣の源流となった大舎人の織手座や祇園社の綿座・錦座、北野社の麹座、山城大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座、博多の油座などがあり、大和の興福寺や近江の日吉大社も多数の座を支配下に置いたことで知られていた。wiki

元々の意図としては、商人が商品を仕入れて旅をする・商品を倉庫に保管するということに伴うリスクへの対処として寺社の傘下と保護を求めたことが始まりでしょう。

大金や商品をもって野宿することは難しいですよね。

その点、大寺院や神社は、各地に末寺を持ち人員の交流も盛んです。それならば傘下に入れば保護してもらえる上に寺社のコネも使うことができます。

しかし、室町から戦国にかけて乱世が続いたことでより強力な軍事力を持った寺社勢力は、他宗との争いもあって、経済利権を強化していくのです。本来、それを止める立場の足利政権はぼろぼろで群雄割拠している大名にはなかなか止められなかったのです。

庶民や零細商人は困る

このように座と寺社は一体化して強力な存在となります。関所を通るための通行料や物を売る権利は利権と化して寺社を潤したのです。

織田信長は楽市楽座で既得権を壊した

楽市楽座による自由化でそれをぶっ壊したのが信長の先進的なところ。寺社勢力と一切の妥協をしなかったのです。

目的とした減税と規制緩和により、信長支配下の城下町は繁栄していきました。ほら、商人は税金の安いところで商売をしたがります。結果として城下が繁栄して大名自身も潤うのです。

現代社会にも通じるところがありますね。減税と規制緩和が社会に活力を与えます。ところが行き過ぎると競争激化で争いが起きて規制が強まる⇒規制強化とそれに伴う増税⇒繰り返し!

足利義昭を将軍の座につけた後に、望んだものが「堺・大津・草津」などの商業地の直轄権。彼は徹頭徹尾、商業を重視したのです。尾張の熱田神宮・津島商人の薫陶や大山崎の油売をしていたと噂される斉藤道三の影響が大きかったのでしょう。

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