連歌師里村紹巴の物語:覇天の歌
- 2013/5/18
- 歴史と戦国の小説
戦国時代の連歌師として有名な里村紹巴(さとむらじょうは)の生涯を描いた物語。
筆者は、岩井三四二氏。
連歌師 里村紹巴とは
織田信長を明智光秀が討った本能寺の変。この直前に催した連歌会に出席していました。
この時に詠まれた「時は今 天が下しる五月かな」という光秀の歌を土岐源氏の明智が天下を取るとした解釈もあります。
連歌について
連歌は、当時の武将や公家の遊びの中でも茶道と並ぶ流行の趣味で、かつ戦勝を祈願するものでした。
ただし、かなり細かい取り決めがあることから、連歌を行うにはかなりの教養が必要になります。
多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。wiki
ゆえに、連歌会をリードする連歌師という役割の人物が必要となり、里村紹巴は連歌師の第一人者として活躍します。
連歌を広めるのか高めるのか
安土桃山時代に流行した芸術、連歌・茶道・屏風や襖絵いずれも権力者の庇護があってこそのものです。
一人前の連歌師に上り詰めるまでの話しも面白いのですが、やはり、物語のハイライトは第一人者となってから。
時代は、織田信長から豊臣秀吉へと権力者が変わります。しかし、元々下積みからの叩き台で天下人となった秀吉に連歌の基礎となる教養などありません。
でも、権力者の常として批判や批評・馬鹿にされることは受け入れませんし、連歌嫌いになれば大事なスポンサーを失ってしまいます。
連歌師として里村紹巴は、秀吉の下手な歌に対してどう対処するのでしょうか?
連歌を通して、政治にも関わりたいという願いは成就するのか?
覇天の歌
連歌の道をひた走りながら、弟子との関係・身分制度・生まれながらのサラブレッドとの才能の違いなど、芸術を極めるために幾多の壁に突き当たります。
彼の死後、里村紹巴について語ります。「彼は連歌を高めた人でなかったが連歌を広めた人だった」との言葉が印象的です。
ただ、ひたすら芸術を高めることだけに生きられる芸術家は幸せです。
多くの場合、自分および周りを食べさせるために、高めるよりも広めるための努力をしなければいけません。さて、どちらの道を選べばいいのでしょうか。
もっとも道は二本だけではありませんので、間の道を行く人がほとんどだと思います。