関東支配を目論んだ蕨城主の渋川義鏡
- 2013/1/13
- 室町時代
埼玉県蕨市の城主「渋川義鏡」は、室町幕府の足利将軍家の一族「渋川氏」の出身です。足利家の一門として、重用されていたものの後世に高名を残すことはできなかった武将です。
九州探題に任じられる渋川氏
足利尊氏が将軍になった後、九州探題を任せられて九州平定を目指すも力不足で、菊池氏・懐良親王の南朝に敗れます。その後、同じく足利氏の一族である今川了俊に九州探題の座を譲ります。
ところが、今川了俊が九州を平定した上に勢力が強大になったことや中央政界の政変のせいで解任されて、渋川氏の渋川 満頼が九州探題を継ぐことになります。
ただ、戦国時代に入る中で、渋川氏の九州勢力は衰えることになります。
関東の蕨を支配した渋川義鏡
長禄元年(1457年)、第8代将軍足利義政の命により異母兄の天龍寺香厳院主清久が還俗して鎌倉公方足利政知として翌年、関東に下向した。義鏡も共に下向したが、関東(武蔵蕨郷、現在の埼玉県蕨市か)に分家が存在していた事、渋川氏が足利氏でも家格が高い家柄である事が理由ではないかと言われている。wiki
足利幕府は徳川幕府などと違い、弱い幕府で、関東の支配権を完全に握っている状態ではなく、鎌倉公方と室町政権が対立することも多かったのです。
足利義満・義輝など、将軍権力の強い人物と義政のように力の弱い将軍とがいて安定した政権ではなかったのです。
この渋川義鏡も鎌倉公方の補佐役として関東に下るも古河公方足利成氏に敗北し関東制圧に失敗しています。
斯波義廉
渋川義鏡の息子の一人斯波義廉は、管領筆頭の斯波家に養子に入り、斯波家を継ぎます。
ところが、斯波氏(義敏)には、実子の斯波義寛もおり、応仁の乱の原因の一つともなっていきます。
渋川氏の墓所「蕨の宝樹院」
渋川公墓所として蕨市にあるお寺が宝樹院です。
渋川公の墓所「宝樹院」
渋川公のお墓
渋川公の蕨城
現在は、公園になっている蕨城、隣には和楽備神社があります。