今川義元が持っていた名刀「義元左文字」は、桶狭間の戦いで織田信長が義元を討ったときから信長の愛刀となる。
左文字は、九州筑前の名工で「左文字」や「大左」とも呼ばれています。筑前隠岐の左衛門尉安吉の作との謂れ。刃長は二尺二寸一分、南北朝時代の制作。刃文は広直刃調に、互の目足入り。
義元左文字の来歴
この義元左文字は、南北朝時代(十四世紀)に作られ、阿波の三好宗三(政長)→甲斐の武田信虎→駿河の今川義元を経て信長に渡りました。享保名物帳には義元左文字とも三好左文字とも言うと記載。
本能寺の変が起きた時にも義元左文字を所持していたと言われており、焼け跡から秀吉が発見して所蔵。家臣の誰かもしくは、本能寺の変時に逃げ出した女官が保持していたのでしょう。
最終的に、秀吉から家康に渡った天下人の名刀
最初に保有した三好宗三は、三好一族の分家で、細川晴元の家臣として活躍。細川家の内紛時期に台頭したが、本家の三好長慶に討たれる。茶人としても有名で「三好左文字」以外にも「新田肩衝」を所持するなど当代一流の文化人。
義元が持っていた時は、太刀として二尺六寸の長さ、織田信長はこれを磨りあげて短くし刀にしました。信長はよほど嬉しかったのかこの刀に様々な銘を刻んでいます。
●義元左文字に刻まれている銘
銘1「織田尾張守信長」
銘2「永禄三年五月十九日 義元討刻彼所持刀」
今川義元を打ち取り、喜んで刀に銘を刻んでいる(刻ませている)信長の姿が絵に浮かんでくるようです。
来歴を見ると、今川~織田~豊臣~徳川と天下人に保有され続けた名刀です。この刀を所持することが、前人の意志を受け継ぎ天下を治める証。
義元左文字には、「織田尾張守」という金の銘(金象嵌)がはっきり見えます。
明暦の大火による被害と義元左文字の現在
その後、明暦三年(1657年)に江戸を襲った大火(振袖火事)により、火を被ったため越前康継の手で再刃されています。明治二年に、義元左文字は、徳川家から建勲神社に奉納され現在も健在。
建勲神社は、明治維新後に創建された織田信長の神社です。
建勲神社(たけいさおじんじゃ)は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社である。織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀する。wiki
今川義元と織田信長
今川義元は、鉄漿・肥満・貴族風味で、後世の人気は薄い武将です。信長の引き立て役となり平凡な人物に見えますね。
後の将軍、徳川家康を人質にとり、冷遇したとの逸話も多く、勝者の歴史の陰で割を食っています。
しかし、各国の名門守護大名が没落していく中で、戦国大名に転換した数少ない大名の一人であり、甲斐の武田、相模の北条と同盟を結び、駿河・遠江・三河の三カ国を統一した手腕は、格別のものです。
甲斐の武田信玄と図って武田信虎の追放に加担、武田・上杉の川中島合戦の仲裁を行う、今川仮名目録(今川家の法律)を改定、幕府権力の否定などの実績を残しています。
だからこそ、義元を打ち取った織田信長は、その刀を愛刀として保有しつづけ、徳川家康も手に入れた後、好んで利用していたのでしょう。
同じく信長の愛刀「へし切り長谷部」
実際に博物館で義元左文字を見た時には、戦国時代の英傑達が所持していた刀だけに、所持者の物語が脳裏に浮かび感慨深く感じました。
桶狭間の戦い前夜に今川義元が宿泊した城
刀剣乱舞では、宗三左文字として登場
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桶狭間の戦いに、北条家臣板部岡江雪の刀「江雪左文字」と出陣すると回想が始まる。
今川の刀であった方が良かったのか織田の刀そして天下人の刀になった数奇な運命が義元左文字の魅力。