進むも退くも滝川と称された名将。織田信長が磨きあげた軍団長の滝川一益

近江甲賀の出身で忍びの技を持つと言われた男が「滝川一益」

秀吉・光秀と同じく浪人から織田家の軍団長になり上がった織田信長が磨きあげた武将の一人です。

織田家軍団長の一人

本能寺の変で信長が倒れた時に、織田家で勢力を持つ軍団長は明智光秀を含めて五人いました。他に比べて影の薄い男が一人。しかし、その能力・実績は負けていません。

当時の軍団長

●柴田勝家:織田家譜代、北陸担当、敵は上杉景勝

●滝川一益:鉄砲傭兵から成り上がり、関東管領、敵は北条氏政・氏直

●明智光秀:朝倉家から転身、足利幕臣、近畿担当、当面の敵は無

●羽柴秀吉:小者から出世、中国担当、敵は毛利輝元

他の軍団長候補だった佐久間信盛、原田直政、荒木村重は様々な理由で没落。客将・親類の徳川家康は別格として東海方面を担当。丹羽長秀は一枚格下か。

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織田信長に見いだされて活躍した一益。

信長在世中は、華やかに彩られていた滝川一益の人生。その活躍っぷりはすさまじい。

  • 織田・松平同盟の締結を担当
  • 北畠家が中心勢力の伊勢攻略を担当
  • 伊勢長島の一向宗願証寺を包囲
  • 援軍として北陸・大和・摂津を攻略
  • 織田信忠の副将として武田攻略
  • 左近将監に任官し信長の評価も高い

忍者出身で大名になった唯一の男。力攻めだけでなく内応や調略が得意技。その実力は、織田家家臣団の中でも秀吉・光秀・一益の三人を三傑と呼んでもいい程。

戦で戦死率が高く最強の武将を当てなければいけない先鋒を任せられるのは滝川、戦で撤退するときにもっとも難しい殿を任せられるのも滝川とまで称賛された武将。

関東管領として東国を支配

武田滅亡後、上野国(現群馬県)と信濃(現長野県)の小県・佐久の二郡を与えられる。北条家とは同盟を組んで武田を滅ぼしたものの手切れ同然の状態。一益は、関東管領として北条家を攻略・従属させる役割を担う。

関東の覇者を自認する北条氏としては、関東管領「滝川一益」はとても認められない。

当時の信長家臣は茶の湯政道の名の元に、名物茶器を貰い茶会を開くことを名誉としており、一益も「珠光小茄子」を恩賞に望むも与えられたのは関東の地。茶の湯の師匠であった太郎五郎に「こんな遠国に赴任させられて茶の湯もできずにつらくてしょうがない」との書状を送っている。

智将・名将と謳われた一益も老境に差し掛かって、戦陣や領地争いがつらくなっていたのかもしれません。

珠光名物の1つで、天下四茄子にも数えられる。織田信長の家臣・滝川一益が恩賞として望んだが叶わず、大いに嘆いたという。本能寺の変で焼失した。

『信長の野望 蒼天録』家宝一覧-茶道具-

この頃、かぶき者として有名な前田慶次郎利益が、滝川家で対北条を相手に無双していたシーンが「花の慶次」で描かれています。

本能寺の変で滝川一益の運命は暗転

浪人あがりから関東管領に成り上がった男として世の中の尊敬を集めていた彼の人生はここから一気に狂い始めます。

関東に赴任してわずか三カ月。これでは、地侍の掌握もできません。

6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ。」と述べたと伝わる(上毛古戦記)wiki

上野を捨てて、伊勢に帰ることを決意した滝川勢と北条家は、「神流川の戦い」で激突します。戦にかけては百戦練磨の滝川一益、序盤は北条を押しまくりますが諸将の足並みがそろわず最終的に敗北。大河ドラマ真田丸では、真田昌幸に翻弄される実直なサラリーマンという描かれ方をしています。

何とか命からがら尾張に戻るも、織田家後継者を決める清州会議は終了。一益は織田家宿老の地位と広大な所領を失い伊勢長島五万石を認められたのみ。

この領地配分に対して当然、不満を持ったため柴田勝家&織田信孝と組んで秀吉に対抗。ここは柴田勝家が頑張って一益の宿老の座と伊勢や尾張で三十万石辺りも確保しておけば少しは変わったのではと思うところ。

柴田勝家では、政治力・策略とも羽柴秀吉にはとても及ばず。滝川一益こそが秀吉と対等に戦える男だったのに。

対秀吉包囲網の結成

計略や戦の天才。滝川軍団は、伊勢亀山城や峰城を降し北伊勢の過半を手中に収めます。しかし、秀吉軍は北陸の熊「柴田勝家」が出陣できない冬に伊勢を攻めて長島城以外の城を降してしまう。さらに、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れたことで一益の夢も潰えます。

その後、徳川&織田連合軍と羽柴秀吉軍がたたかった小牧・長久手の戦いでは、秀吉方に属して尾張蟹江城を奪うも徳川家康に包囲されて開城。一益自身の命が助けられたのは遠い昔に織徳同盟に尽力して以来、悪い関係ではなかったことが伺える。

蟹江城は、愛知県の蟹江町にあった城で、清州と伊勢長島の間にある要地。城将の前田種利を口説いて開城させることに成功。老人雑話という本には、蟹江の戦いが徳川家康にとり重要な戦いであったと書かれています。6月18日から29日までの激戦で滝川一益は降伏。

その後は、越前大野で隠居生活を送る。

有名ではありませんが、滝川一益の息子について書かれていた内容が面白い。あの真田昌幸の娘婿だったとは。

瀧川一忠 (1553~1615)三九郎。一益の息(2男・嫡男扱い)。瀧川一門衆。上野国の豪族・真田昌幸の娘婿。真田信之、信繁(幸村)と義兄弟。織田信忠の「忠」拝領か。「甲州攻め」、その後、関東攻略に活躍。厩橋城城代。さむらいたましい

信長の部下として輝いていた時代に比べて、晩年の寂しさは戦国時代ならでは。とはいえ、関東から帰ってからも柴田勝家の同盟軍としての活躍ぶりは目覚ましい。書には信長配下でないと力を発揮できない男として描かれていることも多いが、伊勢長島五万石の身代で北伊勢を支配し秀吉軍を引き付けたのは天晴れと言える戦だったのではないでしょうか。

あくまでも、軍事司令官として、その力を発揮した男。主君織田信長あってこその滝川一益だったのでしょう。関東に赴く前には隠居したいと申し出ていたとの逸話もある位ですから。

なお、滝川クリステルは子孫との話もちらほらあるような。

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