優秀な人にありがちな「正論」=常に正義の青臭さ

独善の危険

優秀な人は、正論一筋になりがち。正論を主張するのもいいのですが、度がすぎると人に敬遠されてしまいます。

優秀な人は、多くの本を読み、人よりも多くを学びます。もともと、勉強が得意ですからね!

そうなると気をつけなければいけないのは、正論こそが正義と思い込むこと。問題には、唯一の解答があると考え、それ以外の答えは、切り捨てる。こういう人は、他人が愚かに見えて仕方がない。これが、優秀で頭の良い人が陥る罠の一つ。

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正論=常に正義

現実は、白黒はっきり付けられることばかりではなく、妥協しなければならないことばかりですよね。

しかし、正論を主張する人は、「間を取る。足して2で割る。おとなになる。」などという妥協の末の解決策を受け入れず、すっきりと白黒付けられる正解や正義に固執してしまいます。

理屈などどうにでもなる。盗人にも一分の理。清濁併せ呑む。などという大人の解決法は、正義に反するとやけに反発。政治でいう中道よりも極左・極右に走ってしまう。正しさなんてどうにでも理屈が付くというのが、嫌で嫌で仕方がない。

そんな人物として描かれるのが、北方謙三の書く史記。もともと、史記は、この司馬遷の書いた書物。リーダーシップを学ぶこともできる良書として、中国をはじめ日本などで読みつがれてきました。

若き司馬遷の青臭さ

史記武帝紀第7巻の司馬遷に対する桑弘羊の感想です。

司馬遷は、幼少のころから、多分、優秀だったのだろう。万巻の書を読破し、若いころから並ぶ者のない学識を身に付けた。そういう人間にとっては、正論が常に正義である。その青臭さに、辟易したことは何度もある。そして、正論を吐いたがゆえに、罰を受けることになった

そう、正論は青臭いんです。正しいことは正しい。しかし、その正しさは、一方向から見た正しさに過ぎない。そのことを指摘しても優秀ゆえに、厳しい反論が返ってきて辟易する。

自然環境を守ることは大事。ただ、それが、絶対正義になってしまうと、多くの人を辟易させる青臭い正義になりがち。別の言葉で言うと独善。害虫を退治しようと森に殺虫剤を撒けば、その虫を餌にする鳥達も息絶える。

己の正義に対する危険性

現代の政治も、各国で、中道派が衰退し、右派・左派的な主張が強くなり、対立を深めつつあります。

アスリートの為末大氏は、noteに、「いると思った巨悪がいなかった場合に」という話を綴る中で、違う考えの人と対話することの大切さを語っています。

複眼的な視点を手に入れるには違う立場、違う考えの人との対話が重要なのだろうと思う。

けれども、気を抜いて生きているとどうしても自分と似た考えの人間が周囲に集まりやすい。その方が気が楽だし落ち着くからだ。すると余計に違う立場の人との交流が少なくなり、考えは強化されていく。ネットがあるじゃないかと昔は思われたが、ネットの方がむしろ偏りと閉鎖性は強くなってしまった。為末大「note」

社会の分断を止めるためには、違う考えの人との対話。それも独善に凝り固まった議論ではなく、傾聴と受け入れが必要なんだろうなと思います。

これは、国家であろうとオフィスの一部署であろうと変わらない。ドラマ・小説で、半沢直樹の信念の一つに、組織の常識と世間の常識を一致させるという言葉もありました。かけ離れた常識を持っている組織にならないように注意しないといけませんね。

哲学・歴史を学ぶのは、現在に生かすため。自らの考えを強化するだけでなく、違う立場・常識を学ぶためにも歴史は大事です。

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