井伊家のご先祖は、遠江の藤原共資&井伊共保

遠江の井伊谷は、井谷川の中流にある地で、戦国時代に徳川家康に仕えた井伊直政の井伊家が治めた地。次の大河ドラマ(2017年)は次郎法師の異名を持つ井伊直虎が主人公。

井伊家の先祖は、遠江の国司だった藤原共資(ともすけ)の養子「共保(ともやす)」が井伊谷に住み、井伊姓を名乗ったのが最初。

この井伊共保が、武勇に優れた優秀な人物で、井伊谷周辺を切り従えた。

●遠州:井伊谷 浜名湖の北東。静岡県浜松市北区引佐町井伊谷

井伊軍志では、井伊氏の祖について伝説を紹介しています。

井伊家の先祖:藤原共資&井伊共保の伝説

寛弘7年(1010年)井伊谷八幡宮の神主が、御手洗井戸の井桁に、生まれたばかりの赤子を見つけました。良く見ると美貌で眼光鋭い男児。そこで、神主は家に持ち帰り、7歳まで育てたところ。

遠江の国司 藤原共資は女子ばかりで男子の跡継ぎに恵まれなかったため、神官に頼み込んで、養子に貰い受けた。その後、共保と名乗らせて娘と結婚させて家督を譲った。

まるで、日本昔噺のようなお話ですが、近江彦根藩の祖となった井伊直政のご先祖に箔をつけるために、このような伝説を作ったのでしょう。1010年は平安時代真っただ中、ちょうど藤原氏の全盛時代。藤原道長が摂政になったのは1016年。

藤原共資自身の事はあまり知られておらず、国司という説と巡検使との説がある。

藤原共資について井伊家伝記(注1)によれば、「大織冠藤原鎌足12代の子孫で、備中守(藤原)共資公は公家こうけにて天皇の命令で遠州村櫛の郷に住む。
遠江国を巡検して毎年禁裏へ年貢を納める。数年経ち、遠州一国を預かり村櫛の入江のところにある城に住んだ。村櫛町自治会

井伊共保は、自浄院を設立。これが後に井伊直虎・直政に関わる龍譚寺。その後の遠江井伊谷を支配する井伊家の先祖となった。

そして、時代は下り、南北朝時代に、後醍醐天皇の第8皇子【宗良親王】が、井伊道政に奉じられて挙兵。この時に道政の娘重姫は、宗良親王の妃として尹良親王を生む。

ところが、南北朝は、最終的に北朝が勝利したため、南朝方の井伊家は肩身の狭い思いをすることに。

駿河・遠江・三河と東海堂筋は、足利氏の牙城。一族である吉良・細川・仁木・今川などの諸氏が発祥の地&守護として君臨。

特に、駿河・遠江は足利一族の今川氏が支配するところとなり、有能な人物を輩出したために戦国時代まで守護として君臨。今川義元が織田信長に討たれるまで隆盛を誇った。

この地に、南朝方の井伊家が存在、南北朝の和睦に従い、井伊家も今川家の支配に入ったわけですが、先祖から干戈を交えていた今川家は、井伊家を外様扱いにしていた様子。

後の井伊直虎時代の悲劇の種は、南北朝時代から芽吹いていたと言えるでしょう。現代人が考える以上に、ご先祖や家柄を大事にするのは平安~戦国時代の通例です。

参考

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