石川数正:家康を裏切り秀吉の臣下になった名将

西三河の旗頭として、徳川家康の片腕だった男、「石川数正」。数少ない家康を裏切った男になってしまいました。しかし、出奔の理由は定かではなく、明智光秀の裏切りなどと共に、戦国の謎とされています。

日本人らしい話の中には、主君家康と示し合わせて、わざと裏切った上で、豊臣家の中で、徳川家康の天下取りを助けたという観方も。天下を取った家康を裏切った割には、そんなに悪評のある人物でもありませんし、当時の徳川家の状況からは、石川数正が出奔する以外に手はなかったのかもしれません。

家康を裏切った石川数正は名将だった

家康の前半生を支えただけに石川数正は貢献度大。主だった活躍だけでも下記の通り。

今川義元の人質だった家康に同行して補佐

家康独立後に、今川氏真と交渉し、正室築山殿と嫡男の信康返還に成功

  • 織田信長との清州同盟交渉
  • 松平信康の後見人
  • 譜代重臣として西三河の旗頭となる
  • 岡崎城代として、三河を預かる
  • 本能寺の変後に秀吉と儀礼を行う役割を果たす

武将として優れていることは、もちろん、徳川家に数少ない外交官・交渉役として活躍していることがお分かりいただけるかと思います。

逆に、石川数正の交渉に長けたところ、先を見る目があるところが、愚直な三河武士団から浮き上がってしまった可能性が、謎の出奔の原因ではないかと考えられています。

●石川数正といえば、何といっても信州松本城。これだけの城を築ける男が、武勇だけのはずがありません。

優美なる松本城

松本城:wiki

石川数正出奔の理由

小牧・長久手の合戦は、局地的に家康の勝利、大局的には家康の敗北で終りました。徳川側は、局地戦に勝利し名誉と自信を得たものの、周囲の味方をどんどんと失います。

織田信雄を筆頭に、四国長宗我部、紀伊の地侍、北陸の佐々成政と、勢いに乗る秀吉は、包囲網を各個撃破。

本州中央を占める秀吉を脅かせる存在は潰されていきます。先が見える武将ならば、秀吉との力の差を悟るのでしょうけれど、人間そうは行きません。

  • 下賤の者の成り上がり
  • 小牧・長久手ではわれらが勝った
  • 甲信東海の武士団は強い
  • 臣下になったら何をされるか分からない

三河武士団の多くは、秀吉に下ることを良しとしなかったのではないでしょうか。徳川家康という人は、晩年はさておき、中年に至るまでの間、自らの意志をはっきりさせない面があったようです。

家臣の合議や意志を無視して、独断を下すことは少なく、「殿はハキとしたことを言わない方」という話もあるほど。その中で、唯一、秀吉に従うことを唱えていたのが石川数正。勇気ある行いですよね。

いつの世も蛮勇や極端な意見が、集団の合意になりえることは、皆さまよくご存じの通り。降伏・和睦というのは余程、切羽詰らないと言えません。

秀吉との外交を担当して、秀吉の器量や人間性に惚れ込むと共に、三河武士の狭量さや数正への悪意に対して我慢ならなくなったことは十分に考えられます。

もし、本当に、家康と暗黙の了解を得たうえで、裏切っていたとしたら、美しい主従の物語。歴史小説家の山岡荘八氏や南原幹雄氏は、その説を元に小説を書いています。

石川数正の出奔で徳川家が救われた

実際、石川数正の裏切りがなかったら、徳川家康が秀吉に従うことはできなかったかもしれません。石川数正の裏切りのせいで、兵法を甲州流に切り替えたり、城を整備したりと戦どころではなくなった徳川家。

筆頭家臣が裏切っても、何とかなった徳川家もスゴイですけどね。

徳川家が臣従し、関東に移封された後、石川数正は、信州の要地である松本の地を任されて松本城を築きます。この城は、たかだか10万石の領地に対して過分に過ぎる城。信濃の束ねとして豊臣秀吉からの信頼を勝ち得ていた証ではないでしょうか。

「家康のはきすてられた古箒、都へ来ては塵ほどなし」:伯耆の守を名乗っていたことからの中傷。

こんなことを言われるような武将ではなかったと思います。


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