戦は下手でも太閤に殉じて正義や恩義を残したへいくわい者の石田三成

戦国の終りを告げて幕を閉じた美濃「関ヶ原の戦い」。敗者となった石田三成は実はエピソード満載の魅力あふれる男です。

戦国時代の有名武将の中では、私自身、好きではなくどちらかというと嫌いな方。でもそれを置いておいても彼の成し遂げた事は凄いのです。

  • わずか19万石の身代で250万石を超える大老「徳川家康」に挑んだ男。
  • 家臣や領民に慕われた男。
  • 直江兼続や大谷吉継など共に死ぬことを覚悟した親友のいた男。
  • 同時に、同僚から非常に憎まれていた男

関ヶ原の戦いでは西軍の総帥格

一代の英雄として戦の世を終わらせた豊臣秀吉の死後、後継者の秀頼は幼く五大老・五奉行制度が敷かれました。しかし、世は下剋上の戦国の香が残る。

秀吉自身が織田家から天下を簒奪したに等しい事情もあり、大老筆頭の徳川家康の実力は頭一つ抜けていました。そのまま放っておけば、すんなりと家康の天下になっていたかもしれません。でもそれだと戦乱が続いていたかもしれません。

待ったをかけたのがへいくわい者の彼「石田三成」です。

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徳川家康の弱点

  • 家康の実績は局地戦主体
  • 大名たちの中に与力や家臣として戦いを共にした人物が少ない
  • 秀頼の存在
  • 上杉、毛利、前田、伊達、宇喜多など大老を中心に大諸侯が多い

これでは、家康死後や秀頼成長後にまた混乱していたことでしょう。

へいくわい者の石田三成

三成は、秀吉の死後、明らかに家康を仮想敵として動きます。そして家康も自身が天下を取るために彼を利用して諸将の気持ちを惹きつけます。

官僚型の典型として、他の武将に対して注意や罰を与える三成は、細かい書類仕事を苦手とする戦場の猛者に嫌われていました。

豊臣家の対立構造

一方では、大河ドラマの天地人でも明らかになった直江兼続との友情。大谷吉継とのいい話も。

茶会ではたてられた茶を同じ茶碗でまわし飲みします。そこでのエピソード。

重い病気を患い顔が崩れてただれていた大谷吉継の鼻水もしくは膿が茶の中に落ちた。隣に茶をまわすこともできず、茫然(ぼうぜん)とする吉継。そのとき、同席していた三成が「吉継殿、早く茶をまわして下さい。拙者(せっしゃ)喉(のど)が渇き申した。」
と言うと、強引に吉継の手から茶椀を受け取り、一気に飲み干した。

彼は友情や正義を知る男だったのです。領民や部下にも非常に慕われており領地の近江佐和山では非常に領主として評価が高かった。

ただ、正義感が強すぎて不正や悪・規則違反を見逃すことができないという人物だったのです。現代でも細かい規則に煩い総務部長がいたら営業マンに嫌われますよね。

石田三成の部下

有名な三成に過ぎたるモノが二つあり。島の左近に佐和山の城と世の中に鳴り響いた人物が「島左近勝猛」

三成の知行が四万石だった時代に半分の二万石を与えて家臣というより指南役として招いた人物。関ヶ原の戦いでは、鬼神のように奮戦。後日、対戦した黒田家をして左近の戦場で鍛えた塩辛声が忘れられぬ。具足や兜の姿すら見ることが出来なかったと言われた程。

そして、蒲生氏郷の元部下だった蒲生郷舎、舞兵庫などいくさ人を抱えており、皆が武名を挙げて関ヶ原に散っています。

部下に対する人心掌握は素晴らしく、戦に弱いと言われていた石田隊は、小早川秀秋の裏切りさえなければ西軍が勝っていたというところまで東軍を押し込むことに成功。

●陣地にした笹尾山

正義や恩義を貫くことに成功

司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」のラストシーンでは、黒田官兵衛こと如水にしばし語らせます。

三成の主張していた不義の人である肥大漢が天下を取った。しかし、秀吉の晩年には、大名から庶民までその政権の終りを望んでいたのに三成がそれを続かせようとした。

最初から無理なことだったのだ。

しかし、「成功した」ことが一つだけ。それこそ、秀吉を惨めさから救いだし、人の世に正義やけじめを残すこと!

司馬氏が描き出しているように、豊臣政権から徳川政権に移るに当り、誰も抵抗せずにすんなり皆が家康の家臣に収まってしまったら・・・恩義・正義・人のけじめを失ってしまう。

太閤の親族・恩顧の部下だった「小早川秀秋」「福島正則」「加藤清正」仕方なかったとはいえ石田三成までも家康の部下として徳川政権の樹立に協力していたらと思うと。

力不足にも関わらず反対派を糾合して家康に挑んだ三成の忠義と戦略に敬意を表します。

同じ西軍の参謀格、安国寺、増田、長束のダメっぷりや総帥毛利家の状態を対比させると、現実より「あるべき」「すべき」と理想を語る男の哀しき姿が見えてきます。

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