石田三成から結城秀康に贈られた名刀「石田正宗(切込正宗)」

五郎入道正宗作と伝えられる無銘の刀が「石田正宗」。

正宗(まさむね)は、日本刀の代名詞とも言われる名工で鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活躍。「相州伝」と称される作風を確立。

実戦が増えた時代でもあり後世に大きな影響を与えた。沸の妙味がその真髄。

刃長:2尺2寸7分(68.8cm)、重要文化財

正宗の真髄は「沸の妙味」といわれているが、単なる沸出来は新刀以降の最上作でも出来る技であって、総体に地鉄の変化、地刃尋常ならざる金筋(文字通り筋状に複数現れている金線)=筋金(「筋金入」の語源)・稲妻(平地に現れている細長い地景が刄の中へ入り込んでパッとした光の強いS字状に變化した金筋)と映りを透明感のある「極光」の如く、「曜変の妙味」(千変万化の働きを「自然」に現す技)は中古刀期における相州伝の最も得意とする領域で、これが正宗の「神髓」であるといっても過言ではない。wiki

石田正宗はあの関ヶ原で敗れた三成が所有していた刀

正宗によって大成された相州伝と称される作風は、硬軟の鋼を鍛えることによって地鉄(じがね)と刃文(はもん)に沸(にえ)の働きを強調した躍動的な美をあらわしたところにある。この刀は、地鉄(じがね)は板目肌が肌立って地沸(じにえ)が厚くついて地景(ちけい)が頻りに入り、刃文(はもん)は、のたれ刃に大きな互の目刃(ぐのめば)を交え、金筋(きんすじ)、砂流(すながし)が盛んに入っている。e国宝

豊臣秀吉の下で活躍した石田三成保持の愛刀。いつ傷付いたかは不明ながら、棟にくり込まれ受け傷があり、「切込正宗」とも呼ばれている。

もともとは、毛利若狭守が所持していたところ、宇喜多秀家が400貫で買取り、石田三成に渡したと享保名物帳に記されている。

太閤秀吉に続いて前田利家が死亡したため、加藤清正・福島正則など武闘派諸将と折り合いの悪かった三成は、七将に襲撃されて危機に陥る。

進退極まった三成は徳川家康に助けを求めて保護される代わりに五奉行を辞職して領地の近江佐和山に帰ることになったのです。

この時に、佐和山まで三成を警護して付き添ったのが結城秀康。家康の次男として生まれながら、秀吉の養子となった戦国武将好みの男です。

そして、この別れの時に、三成は佩刀として使っていた五郎正宗を秀康に送ったのです。この所以から「石田正宗」との名で呼ばれることになりました。

秀吉の養子として大坂城で暮らした経緯などから秀康は豊臣家に対して好意を持っていたようで、万一の時は秀頼の力になって欲しいとの気持ちを込めたのかもしれません。

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石田三成を愛用した結城秀康という男

家康の正室築山殿の侍女だったお万の方を母に1574年に次男として生まれる。ただし、正妻をはばかってか父との初対面は兄信康のとりなしで3才になってから。

信康・秀康・秀忠と母違いの息子たち。

1584年の小牧・長久手の戦いの後に秀吉の下に養子として出される。養子といえば聞こえはいいのですが人質ですね。

しかし、彼の猛気は微塵も揺るがず、豊臣家に実子が生まれたこともあり関東の名家「結城家」に養子に出されて結城秀康を名乗る。

これではまるでやっかい者であるかのようなたらい回し。北条氏滅亡後に関東をもらった家康の経営上重要なポジションではあるものの嫡子に戻すつもりはなかった様子。

ところが、大器であることと武勇が評判となり、徳川家の後継者として名前が上がったことも度々で、他の戦国大名達も官僚タイプの秀忠より武将タイプの秀康に好感を持っていた。

最終的には、戦争を終わらせた男「家康」の判断で乱世の秀康より平時の秀忠を選ぶ結果となる。

 

兄でありながら将軍を継げなかった越前初代藩主の結城秀康。家康も秀康への評価を高め、息子の中で秀忠は別としてもっとも優遇し大切にする。

越前68万石を与えられ、全国の大名とは別の「制外の家」として遇され、将軍秀忠自身、兄として別格扱いしています。

 

徳川家にとって石田三成と豊臣家は最大の敵でライバルであったことから、諸大名は三成との縁を大切にすることを避けていました。

ところが、秀康は贈られた刀を「石田正宗」と命名し生涯愛用していたのです。

福井歴史堂:初代藩主「結城秀康」の紹介

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